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記事: 『人と人とを繋げる』というパーパスができるまで

『人と人とを繋げる』というパーパスができるまで

ボクが育った静岡県浜松市は工業地区で、自動車会社のホンダやスズキがあり、ヤマハ発動機などの本社や工場がある工業地区でした。そのため、その当時としては珍しく日系ブラジル人の方をはじめ、様々な人種が住む地域だったと思います。

ボクの幼少期は、勉強は嫌いだけれど暇があれば手を動かし何か作ってるか、自転車に乗って海岸沿いを走って「あの雲の向こうにラピュタがあるに違いない!」なんて妄想癖のある普通の少年でした。

今考えると、人と少しだけちごうなと思うところは小学校や中学校、高校と学校では仲の良い友達が集まって特定のグループができるけれど、ボクはどこにも属することはなく、いろんなグループに顔がきいて、女子も男子も先輩も先生も分け隔てなく同じように接するから、気づいたら学級委員とかやり始め、中学校では、勉強は全然出来なくて中の下みたいな頭の悪い生徒だったけど、同級生はもちろん、先輩、後輩、先生といろんなところに顔がきくからしまいには生徒会長とかになってしまいました。学校史上1番出来の悪い生徒会長だったと今でも自負しております。

 

何が言いたいかというと、ボクは昔から、性別、人種、年齢とかくだらないことは関係なく、人と人とを繋げてみんなで一緒にいろんなことを楽しめるコミュニティを作りたいのだなと、本能的に高校生くらいから認識し始めました。

 

このような考えは、昔から思っていて自分でも認識していたのですが、どうしても今の職業である服とは結び付かず、特に結びつけようともせず何も考えず日々を過ごしていました。

 

年月が過ぎ、昨年ようやく自分の思う服を作っていこうと動き出し、『日本の美意識』というコンセプトもある。

だけど、自分の中で「これだけ世の中に服があり、今更自分が新しく服のブランドを作って社会のためになるのか?社会的に意義があるのか?」という葛藤がありました。でも、ここでやらなかったら一生後悔するということもはっきりわかっていたので、自問自答しながらも活動を始めました。

 

ある時そんな思いを相談した人がいました。「ボクは昔から日本の美意識や文化、芸術が好きで、それをコンセプトに服を作って世界中の人に着てもらいたいんですだけど、ボクがそれをやることに今更社会的に何か意義があることなのでしょうか?」と。

その人はこう答えてくれました。

「それは大変意義があることだと思います。これからの世界は多様性が求められる社会になる。様々な地域、社会では異なった文化や価値観があり、それをお互いが理解するのはけっこう大変です。だけど、君が日本の文化や価値観を発信して世界中に届けることで、日本の文化に興味を持ってくれる人が増える。また、そういう人を理解するには相手の文化や価値観を理解しなければならない。だから君が本当にそれができるのならば、多様性の相互理解に大きく貢献できるはずだしやらないといけない。それにいろんな人達が、人種や性別、世代を超えて一緒に様々な文化を楽しめたら、そんなコミュニティって最高じゃないですか?」とおっしゃってくれました。

 

この言葉を聞いて、ボクの中で全てが繋がりました。

ボクの根幹でもある幼少期から育まれた『日本文化をコンセプトにしたクリエーション』と、人間性を作る基盤でもある『人と人とをつなげること』が繋がり

『日本の文化、価値観、美意識を服に落とし込んだクリエーションを世界中の人たちに届けて喜んでもらって、世界中の人たちを繋げる架け橋になろう!』

という強いパーパスがこうして出来上がりました。 

ここから自分の迷いが吹っ切れて、その大きな目標の実現のために走り続けることになりました。

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『世界の人たちに日本の美意識を届ける』が芽生えるまで

ボクは、静岡県浜松市のすぐ海の近くで生まれ育ちました。   家を出るとすぐ目の前は松林が生い茂っていて、そこを抜けると太平洋が一望できるそんなところです。海って言っても海水浴ができるわけでもなく、釣りができるわけでもないから人はいなくて砂浜とテトラポットと海がただ見えるだけの殺風景の海です。 子供の頃はやることがないから、暇があれば松林を探索して秘密基地を作り、意味もなくテトラポッドをのぼ...

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