記事: 『世界の人たちに日本の美意識を届ける』が芽生えるまで
『世界の人たちに日本の美意識を届ける』が芽生えるまで
ボクは、静岡県浜松市のすぐ海の近くで生まれ育ちました。
家を出るとすぐ目の前は松林が生い茂っていて、そこを抜けると太平洋が一望できるそんなところです。海って言っても海水浴ができるわけでもなく、釣りができるわけでもないから人はいなくて砂浜とテトラポットと海がただ見えるだけの殺風景の海です。
子供の頃はやることがないから、暇があれば松林を探索して秘密基地を作り、意味もなくテトラポッドをのぼり、海を眺めて時間を潰す…そんな幼少期でした。
おやじは、書家で家に帰れば字を墨で書いているそんな家庭でした。書家というとなんかかっこよく聞こえるけどそんなことはなく、若い頃の書家なんて収入はほとんどないから家計は大変だったのだと思います。おやじは子供や大人に書道を教えて収入を得ていました。その当時は書家と言っても書を書いてそれが売れるということはあまりなく、おやじは書を書いても売れないから、落款印(石を彫ったハンコ)を自分で彫って売っていたみたいです。
外で海を眺めて家に帰ると、ちょっと燻んだ墨の匂いがプ〜ンと漂い、紙に向かってすらすらと字を書いているか、コリコリと音が聞こえるなと思えば、石を削って落款印を作っているかどっちかでした。同じ浜松市内に住むじいちゃんも書家だったから、日曜日なんか遊びに行くと、やっぱり家の中はプ〜ンと墨の匂いが漂っていて、すらすらと字を書いていました。
その当時は分からなかったけど、かなり特殊な環境だったのだなと今は思います。気づかないうちに日本の文化のすぐ近くで過ごしていたのだと思うし、当時はインターネットなんかなかったから、逆にそれ以外のことがわからなかった。
だからと言って、当時は日本文化が好き!みたいなことは微塵もなく身近過ぎて逆に遠ざけていたところさえありました。しかも当時は、地元のデパートなどで見かける日本画や、その辺で見かける日本的な文化は、なんかかっこよくないと言うか魅力的に見えませんでした。ちょっとダサくない?とすら思っていました。
僕の世代はまだ、日本の文化より西洋の文化の方がイケてる!と言う風潮があったから、なんでも西洋かぶれのふしがあって、そんな僕もそんな時代の風潮に流されて、ピカソやブラック、ポロックってすげ〜とか思ったりして、背伸びして洋楽を聞いたりしてオレってイケてるなって浮かれていました(ホントはチャゲ&飛鳥が好きなのに…恋人はワイン色なんて最高の曲です)。
もちろん西洋の文化、芸術は素晴らしいし見ていて新鮮で面白かったのですが、どうもしっくりこないそんな毎日を過ごしていました。
話は少し飛びます。
ファッションの専門学校を卒業して、オートクチュールのアトリエにお針子として就職が決まったので上京しました。
ここで、急速に日本文化に引き戻される体験が立て続けに起こります。
東京に来て、何気なく日本画家の千住博さんの個展に足を運びました。そして千住博さんの代表作『ウォーターフォール』という滝の絵を見た瞬間に身体中に雷が落ちたような衝撃を受けたのでした。
「これが日本画っ⁉︎いや確かに日本画だけど今まで見たこともないしかっこいい!」ど純粋に感動したことを今もハッキリと覚えています。
次に、当時アメリカでブレイクしていて凱旋した杉本博司さんの個展が森美術館で行われていて、この個展もなんの前情報もなく何気なく行きました。会場に入った瞬間に…「なんだコレは⁉︎写真だけど今までに見たこともないし、でも日本だ‼︎」と脳天を金槌でかち割られたような衝撃を受け、ここでボクは『自分もこの日本的な美意識や価値観、観念を自分の服に落とし込もう‼︎』と決意した時でした。
そこから、一から日本文化を独学で学び、その見識を深めながら、さまざまな職場で服作りの経験を積み、「いつか絶対にこの日本的な文化、芸術を自分で作った服を通して世界中の人たちに届けたい!」そんな明確な目標が自分の中に生まれた時でした。